

私が個人的に大好きな「伊坂幸太郎」の殺し屋シリーズ。
その1作がなんと今回、ブラッド・ピット主演でハリウッド映画化されるとのこと。
あわてて原作を読みなおしましたよ。
あらすじ
舞台は東京駅発、盛岡駅行きの東北新幹線「はやて」。
デパートの屋上から息子の渉を突き落とした犯人へ復讐しに、「はやて」に乗り込んだ木村。
しかし、その復讐相手である中学生の「王子」に木村はあっけなく捕らえられてしまう。
病院にいる渉を人質に「王子」は「木村」をいたぶるり面白がるが、思いもよらぬ騒動にに巻き込まれていく。

と、こういう関係性で物語は展開していくわけです。

おのおのが自身の目的遂行のために、新幹線の中で行動をしていきますが、
妨害によって次第にゴチャつきだします。
蜜柑と檸檬は無事、峰岸のもとへ身代金と息子を連れて行けるのか、
天道虫は、蜜柑と檸檬が持っているトランクを奪ってうえの上野駅で下車できるのか、
復讐しようとして王子に捕まってしまった木村はどうなるのか…
それぞれの行方が気になるところです。
評価&レビュー
文庫本にして約550頁を超える大作ですが、物語の大半が新幹線の中で展開していきます。
読んでいて不思議と中だるみしない、伊坂幸太郎の技術は圧巻です。
アクションシーンがまるで映像のように鮮明に浮かび上がる
上半身を揺すり、手を繰り出す。
相手の拳は、後ろに反り返ってかわすか、もしくは腕で受ける。
相手も似たようなものだった。檸檬が、七尾の脇腹を狙い、下から抉るように、鋭いパンチを放ってきた。
そのタイミングを狙い、肘置きを使った。収納されている肘置きを、左手で勢い良く、倒した。
―「マリアビートル」伊坂幸太郎|角川文庫p251-252
殺し屋たちに繰り広げられる死闘は、まるでアクション映画を見ているかのように、シーンが鮮明にイメージできます。
それが伊坂幸太郎の小説のすごいところ。
いつかのエッセイで、映像を見ながらそれを文章におこしてみる練習をしていたと本人が言っていましたが、この1冊にはまさにそれが活きているなと。
ただ動作ひとつひとつを羅列するのではない、そんな描写にも注目してみて下さい。
「悪」に立ち向かうのに必要なものはなんなのか
『マリアビートル』は、たとえ満身創痍になっても必死で「悪」に立ち向かおうとする、ちっぽけだが偉大な「勇気」が描かれた作品である。
―「マリアビートル」伊坂幸太郎|解説:佐々木 敦|角川文庫p591
ここでいう「悪」とは、おそらく「王子」のことを指しているのではないでしょうか。
一見、普通の中学生に見える「王子」は、その正体はとんでもない悪魔でした。
オトナたちがこの「悪」に立ち向かっていく様は、読みながら少し元気になれます。
殺し屋に向かって「なぜ人を殺してはいけないの」と彼は疑問をぶつけます。
「殺人よりも、もっと理由の分からないルールがたくさんある。
だからね、僕はいつもそういう問いかけを聞くと、ただ単に『人を殺す』という過激なテーマを持ち出して、大人を困らせようとしているだけじゃないか、とまず疑ってしまうんだ。申し訳ないけど」
―「マリアビートル」伊坂幸太郎|角川文庫p521
こう切り出したある男は、このあと「王子」に対してどう返すのか注目してほしいところ。
真理を理解したうえで大人たちになげかけてくる、そんなセコイ「悪」は最後どのように成敗されるのでしょうか。
評価
テンポよく進んでいくストーリーに、次はどうなる!?とページをめくる手が止まりませんでした。
ただ、あんまり登場してなかった人物にこの乗り合わせた4組が翻弄されてただけじゃん…!
と少し拍子抜けしたのも事実。
スカッと感や、そうきたか!といった感じはありません。
さらに、メインの4組以外にもいろんな人物が登場するので、じっくりじっくり確認しながら読み進めないと結局誰が誰の指示で動いて、誰にヤラれたのかが見落としそうになります。
伊坂幸太郎の凄さを実感するには十分な本作。
ハリウッド映画だと、新幹線の中でのアクションシーンはきっと見せ所なんでしょうけど、
原作では「悪」にどう立ち向かっていくのか、タイトル「マリアビートル」の意味とはについて読み込んでほしいですね。

まとめ
以上がレビューになります。
映画もぜひ見てみたいです。
新幹線の中での死闘シーンもいいですが、悪との対峙がどのように表現されているかが気になります。
